あるミュージシャンの苦悩

今回は「あるミュージシャンの苦悩」であり、「ミュージシャンあるある」なテーマを元に書きたいと思います。長文駄文ですがお付き合いください。

■筆者の生い立ちから29歳で夢破れるまで

まず筆者ZION自身も幼少期の頃からギターや、ベース、ドラム、ピアノなどをはじめ、その他にもブラスバンド部でトランペットやバリトンサックスなども演奏していた経験があり、バンド自体は中学2年の頃から49歳の今まで続けており、すでに音楽歴としては35年近くあります。

20代はいわゆるバンドブームでもあり、私自身もプロデビューを目指して頑張っていたりしましたが、29歳で一旦、プロとしてのミュージシャンへの道に区切りをつけました。・・とまあかっこいいことを書いていますが、実際には夢破れたわけです・・。問題はその後で・・15歳から15年近く夢見ていた物、世界を諦めるということで、当初はまるで胸にぽっかり穴が空いたかのように、生きる術や道を見失ってしまい、社会復帰するまでに数年を要しました。

■Macintoshとの出会い、新しい道の始まり

ですが、1999年にAppleのMacintoshという「夢の箱」に出会ったことで、その後の人生が開けます。実際初めてパソコンを触ってから約半年ほどで、インターネットラジオ放送局RADIO365の元になるようなWEBサイトを立ち上げて、その後IT系のスクールに半年ほど通った後、その1年後くらいに紆余曲折あって、その学校の先生、講師としてデビューしました。そしてその学校には2009年まで約7年ほど働き、その学校で出せるだけの結果も出して、同年に株式会社アイビジョンを立ち上げます。

折しもその前後辺りでまた音楽に触れる機会があり、当初は7年間一度も音楽に触れていなかったことから常識にとらわれてしまい「もう2度と音楽などやってはいけないのでは・・」というような感覚に戸惑いましたが、幸いにも良い仲間とメンバーに出会い、そこから「仕事をしながら音楽も真剣に活動する」という人生が開けました。

■音楽の再開、DTMへの傾倒

それ以来、仕事をしながらもバンド活動に励み、2015年には夢叶ってバンドメンバーと、ドキュメンタリー撮影スタッフの合計9人で「アメリカ西海岸ツアー」を行い成功させました。

その後もそのバンドは継続しましたが、翌年の全国ツアーが終わってから、メンバーの事情で解散に至りました。当時のメンバーは今でもたまに会ったりします。

そしてこの頃、僕はようやくパソコンを使った音楽制作「DTM(Desk Top Music)」の世界に足を踏み入れます。このDTMの世界に足を踏み入れたことで、自分の才能がより開花をし、それまではバンドという形や、メンバーがいないと表現できなかったことが、パソコン1台で表現できるようになります。

ですがこのDTMが出来るようになったおかげで新たなジレンマも生まれました。僕は元来、色々なスタイルの楽曲を作る事が多かったのですが、一人で何でも出来るようになったおかげか、よりいっそう多種多様なジャンルの曲を作るようになり、アコギ1本の曲からはじまり、ピアノの弾き語り曲、普通のポップス、ロック、メタル、ダンス、レゲエ、スカなどなど。様々なジャンルの曲を作り始めることになります。

ちなみにDTMを始めたのが2014年頃ですが、それ以降どんどんオリジナル楽曲、作曲のペースは上がってゆき、多い年では年間40曲近くもDTMでオリジナル曲を1から完成まで仕上げるようになりました。年間40曲というと月3〜4、ある意味毎週曲を作っていることになります・・。(笑)

よく人からは「ZIONさんは作曲家として生きていけばいいのに・・」と言われます。ですが僕自身はそうじゃないのです。それを望んでいるわけではないのです。たとえ良い曲を作っていようとも、実績もなければ40代を過ぎたおじさんがその業界に入り込むことなど、そんな夢物語は簡単に起きません。

ではなんのために? 何故作り続けるのか?
やはりたぶん芸術という鬼に魅入られたんだと思ってます。
僕にとって音楽は何よりも「生きるための糧」であり、「希望」そのものなのです。

「生涯、絵を書き続けるように音楽と向き合いたい」

と僕は常日頃思っています。絵を書くという行為は3歳の子供にもできますし、趣味で書き続ける人もいれば、学校に通ったりより一層の努力をして職業にする人もいます。そして形はどうあれその道を極めると「ゴッホやピカソ」のように何十億円で売り買いされるほどの芸術にまで高めることもできます。

■バンドという形をなくした先に見つけたもの

先のバンド「The Lost Ctrl」でのアメリカツアー、全国ツアーを終えてもなお、僕の作曲、創作意欲は尽きませんでした。・・ですが、バンドという集合体をなくした今、僕にとって曲を作り続けることの意味を見失いかけた時期があります。なぜなら日々パソコンの中に溜まってゆく誰にも知られない、表現場所、行き先の無い迷曲達の数々の存在です・・。(笑)

知り合いに聞かせると皆「これを発表できる場所はないの?」「作曲家にはならないの?」と言われ続けます。先にも述べましたが、別に作曲家として職業にしたいわけではありません。

ある日、この問題を解決できる新たな道に気づく瞬間がありました。それは私が20年以上も運営をしているラジオ放送局RADIO365で、2009年に最初に作ったラジオドラマからちょうど10年後の2019年七夕に公開をした「Wish Upon A Star〜星に願いを〜」という作品を作るにあたってのエピソードです。

https://www.youtube.com/watch?v=CjT425_vOyM&ab_channel=RADIO365

その作品を作るきっかけになったのが、同名のタイトル曲である「Wish Upon A Star」という曲です。この曲は30数年以上前に起きた、私の家族に起きた事故、その悲劇を忘れないように。そしてこの曲を作る寸前に亡くなった友人二人を風化させないために、曲として残そうと思い作り上げた曲でした。

https://www.youtube.com/watch?v=LGoFN0B8008&ab_channel=RADIO365
ドキュメンタリーその1
https://www.youtube.com/watch?v=P01RJGBeVVM&t=2s&ab_channel=RADIO365
ドキュメンタリーその2
https://www.youtube.com/watch?v=bw82ieh3JUc&t=6s&ab_channel=RADIO365
ドキュメンタリーその3

ですが曲自体は先のロックバンドThe Losct Ctrlで演奏できるような曲ではなく、わかりやすく言えばJPOP的であり、エグザイルが歌ったほうがいいのでは・・というような少し物悲しいラップとエモーショナルなポップチューンでした。

この曲の存在意義をどうすれば意味あるものに変えられるだろうか・・」と悩み続けたある日のこと。

「そうだラジオドラマの曲として利用すればいいんだ」

と閃いたのです。そうすればジャンルや表現方法に縛りのあるロックバンドとは関係なく利用できるし、その他の曲だって作品のコンセプト毎に曲を提供でき、かつ曲自体も発表の場を得ることが出来る。・・そんな思いにようやく気づいたのです。

■バンドという集合体の進化系

それからというもの僕はどんどんラジオドラマを作るようになり、その度に作品にあったサウンドトラックを制作し、そのサントラ、作品ごとの期間限定のバンドを作るようになりました。

幕末爆音伝・予告編
https://www.youtube.com/watch?v=_djPxPoeGaI&ab_channel=RADIO365
FRANKEN AI’s・予告編
https://www.youtube.com/watch?v=kdNNorWNfbI&t=1s&ab_channel=RADIO365
ボクちゃんと亀吉・予告編

2019年には引き続き「幕末爆音伝」、2020年にはコロナパンデミック過の中で作り上げた「FRANKEN AI’s」、直近では2022年6月に「ボクちゃんと亀吉」と作品も進化しつつ、毎回作品ごとのバンドを組んで、サントラを作り。イベントで演奏するなどの新たな道を見つけ始めたのです。・・そして6作品も作り続けたことで、見えてきたものがあります。

「この僕の新たな生き甲斐、道を他の人にも共有できないだろうか・・」

それがRAZIDRA(ラジドラ)立ち上げの由来であり、原動力となります。

ラジドラでは「声優さん」「作家さん」「ミュージシャン」というこの3者の関わりがとても大切になってきます。それぞれの分野にアマチュアからプロまでの方が日本だけでも膨大に存在します。そして作品を作るにおいて、主題歌や挿入歌、エンディング曲などの存在がとても重要になり、単なるネットに公開されているようなフリー曲よりも、人が作り上げた楽曲を利用した方が100倍良い作品になると思っています。

もちろんミュージシャン以外にも、今はまだ無名の作家さんの作品や、声優さんもラジドラ作品に出演することで実績や経験作りもになります。

僕自身はこのラジドラのおかげで、バンドという集合体に固執することなく、作品作りに参加でき、かつ生き甲斐と実感をもらえる、実りある豊かでワクワクな人生を今送っています。

もちろん若いアーティスト達はどんどんバンドやソロデビューへの可能性にチャレンジした方が良いとも思っています。ですがこの世は「少子高齢化の真っ只中」であり、中高年が増え続けることが100%決まった世の中にまっしぐらです。

特に日本では30歳、40歳を過ぎるとまるで世の決まり事のように「何かを諦めなくてはいけない風潮や同調圧力」が蔓延しています。

僕は抗い続けたい。

いつもそう思っています。

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